密室セラピーⅣ くちづけよりも、近くでー

 

前回のお話

 

#メッセージの余韻

帰宅してすぐにシャワーを浴びたはずなのに、

背中に残る熱は、なかなか引いてくれなかった。

(……お風呂入ったのに……まだ、触れられてる気がする)

タオルドライのままベッドに横になると、スマホの通知がひとつ、点滅していた。

《今日は本当にお疲れさまでした。あのあと、ちゃんと休めていますように。

少し落ち着いたら、また施術にいらしてください。お待ちしています。》

――一ノ瀬 慶

その名前を見ただけで、胸がふっと熱を帯びる。

(あの時、“施術”って言葉、使ってなかったのに……)

「ひよりさんのことは、いつだって迎えに行けますから」

あの言葉が蘇るたびに、心がくすぐったくなった。

そして、手が勝手に動いていた。

《こちらこそ、昨日はありがとうございました。

……またお願いしたいです。》

送信ボタンを押した直後、急に心臓がドクンと跳ねた。

(変じゃなかったかな……?)

でももう、遅い。

画面の「既読」がついたその数分後、慶から返信が届いた。

《“お願い”――ですか?

そんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しいです。

いつでも、ご連絡ください。》

絵文字も顔文字もないのに、

その言葉のひとつひとつが、なぜか甘くて、ずるいくらい優しい。

(……会いたい)

心の奥で、小さな願いが芽を出していた。

 

※この空気が好きな方へ

ひとりの夜に向けたページ、まとめています。

 


#ふたりきりの再訪

予約のメッセージを送った翌日、

指定された時間にサロンの扉を開けると、

そこには前と変わらない穏やかな笑顔の慶がいた。

「おかえりなさい、ひよりさん」

その一言だけで、全身の緊張がふっと緩む。

“いらっしゃいませ”ではなく、“おかえりなさい”。

その言葉を選んだ意味を、深く考えたくなるほどに。

「どうぞ、こちらへ」

促されて奥の部屋へ進むと、

落ち着いた照明と静かな音楽、精油の香り――

すべてが、ひよりの鼓動をゆっくりと溶かしていく。

「今日は、どこか気になる箇所はありますか?」

「……肩と、背中が……少し、重くて」

「わかりました。じゃあ今日は、上半身を中心に、

ゆっくりと緩めていきましょう」

慶の声はいつも通り柔らかくて、

でも、どこか“深く”響いてくるような余韻がある。

「お着替え、どうぞ。準備できたら、声をかけてくださいね」

ひよりが着替え終わり、うつ伏せに横たわると、

その瞬間から、空気が変わった。

(……ああ、またこの感覚)

触れられていないのに、

背中に落ちる視線だけで、肌が呼吸を始める。

「はじめますね」

オイルが肌に落ちる音。

そのすぐ後、慶の手がそっと背中に触れた。

「……っ」

一瞬、声が漏れそうになって、唇を噛んだ。

「……冷たくなかったですか?」

「い、いえ……」

「よかった。ひよりさん、少し呼吸、浅くなってますね。

力を抜いて、大丈夫ですよ」

その言葉通りに呼吸を整えると、

慶の手がゆっくりと背筋をなぞっていく。

滑らかで、優しい――でも、

そこには言葉にできない“意図”のようなものが混ざっていた。

(……この人、やっぱり……)

なにかを“読み取る”ような手。

そして、なにかを“伝える”ような沈黙。

言葉がないのに、言葉よりも深く入ってくる。

(キスされる……かもしれない)

――そんな予感が、

一瞬、心に浮かんで、すぐにかき消された。

慶は、あくまで“施術者”としての距離を保っていた。

触れているのに、触れていないような――

その曖昧で絶妙な空気に、ひよりは翻弄されていく。


#触れられていないのに、感じてしまう

「ひよりさん、肩……ずいぶん力が入ってますね」

「す、すみません……」

「いいんですよ。……でも」

声のトーンが、わずかに低く落ちた。

静かなのに、どこか“爪先で皮膚をなぞられた”ような空気。

「怖いですか? ……それとも、期待してる?」

慶の低い声が、耳の奥に残る。

ひよりは一瞬、呼吸の仕方を忘れそうになっていた。

(なんで……こんな……)

心臓の音ばかりがうるさくて、

肌の感覚だけが、変に敏感になる。

「……大丈夫です。触れてませんから」

慶はそう言って、くすっと小さく笑った。

けれど――

触れられていないはずの場所が、じんわりと熱を持ちはじめていて。

「……あの……」

どう言えばいいのか分からなくて、思わず視線を落とすと、

慶が静かに立ち上がった。

「深呼吸、しましょうか」

そう言って、後ろからそっと、ひよりの両肩に手を添える。

柔らかくて、優しいはずの手のひら。

けれど、どこか――熱を帯びていた。

「吸って……はい、ゆっくり吐いて」

慶の呼吸に合わせて、ひよりも息を整える。

けれど、ぴたりと肩に触れた手から、何かが伝わってくる気がして。

(……なんだろう、これ)

言葉にできない感覚。

鼓動が、さっきよりも早くなる。

触れているのは“肩”だけなのに、

背中の奥、腰のあたりまで――じんわり疼くような気がして。

「……だいぶ、落ち着きましたね」

耳元で、慶がそっと囁いた。

その声が、空気を震わせる。

「ひよりさん、緊張が抜けたあとの身体って……」

「……いちばん、無防備なんです」

(や、だ……そんなの、今、言わないで……)

思わず唇をぎゅっと噛む。

でも――慶の手はそれ以上何もしてこない。

なのに、それが逆に――身体の奥を疼かせる。

(……ダメ、なのに)

ほんの少し、慶の手のひらが動いた気がした瞬間、

ひよりの指先が、ひくりと震えた。

それを――見逃すはずがなかった。

「……今、反応したの、わかりますか?」

背後からの囁き。

ゆっくりと、丁寧に問いかけるその声音に、

ひよりはもう、返事すらできなかった――。


#声は届くのに、心が遠い

――薄暗い照明の下、オイルの香りがゆっくりと肌を包む。

「冷たくないように、手で少し温めてから使いますね」

慶の声は、変わらず穏やかで落ち着いていて。

でも、なぜか――今日は少しだけ、遠く感じた。

触れているはずなのに、どこか、心が空を掴んでいるような感覚。

距離が近づいた気がしたのに、慶のまなざしは“そこ”にはいなかった。

(……優しいのに。ちゃんと触れてくれてるのに。なんでだろう……)

ひよりは、ベッドにうつ伏せになりながら、目を閉じる。

だけど、敏感になった耳だけが、慶の呼吸を追っていた。

「……力加減、大丈夫ですか?」

「……うん、気持ちいいです……」

そう答えた声が、自分でも少しだけ震えているのに気づく。

(もう少し、近くにいてほしいだけなのに……)

そんな焦りが、胸の奥で静かに疼いていた。

慶の指が、肩甲骨の際を撫でていく。

淡く沈むような圧。

皮膚のすぐ下、神経だけを丁寧にくすぐられるような心地よさ。

「……少し、呼吸が浅くなってますね」

静かな声が、耳元に落ちてくる。

近い。けれど、何かが届かない。

(……やっぱり、遠い……)

「深く吸って、吐いてください。……僕の声に合わせて、ゆっくり」

低く、包むようなトーン。

まるで、心の奥に手を伸ばしてきそうな……

それでいて、触れはしない……そんな“距離感”。

息が、奥のほうをくすぐる。

声にならないまま、胸の奥がじんと熱を帯びていく。

ふと、慶の指が髪に触れた。

癖毛が広がっていたのか、そっと指先で退かされた感触。

その一瞬だけ、肌の温度が跳ね上がった。

「……可愛い髪、ですね」

囁くような声。

それは、“いつも通り”を保ったまま、でも明らかに――踏み込んでいた。

(……それ、反則……)

声に出せないまま、息だけが漏れていく。

ひよりの胸の奥に、熱いものがゆっくりと滲み始めていた。

ひよりの耳に、オイルをすくう静かな音が落ちた。

しばらくして、慶の指が、今度は背骨のすぐ脇をなぞるように滑っていく。

指先の圧は優しいのに、体の芯をじわじわと溶かしていくような深さがあった。

(……うそ……なんで……)

緩やかなはずの施術なのに、なぜか――喉の奥が、きゅっと締め付けられる。

「……緊張、戻ってきてますね。大丈夫ですよ、僕はここにいますから」

優しくて、静かな声。

それなのに――まるで、心を見透かされたようで。

(……わかってる。わかってるのに……)

ひよりは目を閉じたまま、息を詰める。

そうしなければ、今にも涙が溢れてしまいそうだったから。

「……慶さん」

呼んでしまった。

でも、呼んだあとに続ける言葉が見つからなかった。

慶の指が、そっと止まる。

「……どうしました?」

(どうしたのは、私のほう……)

こんなふうに触れられるたびに、どうしてこんなにも、心が乱れるんだろう。

(……だって、他の人にも……)

浮かんできたのは、自分の知らない“誰か”――

この手が、こんなふうに髪に触れ、肌をなぞり、同じように優しく囁いてきた相手が、きっと――

(……私だけじゃないんだよね……)

わかってる。それが仕事だってことも。

でも、わかってるのに――どうしようもなく、胸の奥がきゅうっと締めつけられていく。

(ずるい……そんなふうに、優しくしないで……)

次の瞬間、慶の指先が、うなじのあたりにそっと触れた。

汗が滲んでいたのか、肌の温度が急に敏感に跳ねる。

「……少し、熱いですね」

まるで、そこに触れた理由を誤魔化すかのように。

でも、ひよりは感じ取ってしまった。

“わざと”なんて言えない。けど、明らかに――踏み込んできた。

(……私だけに、そうしてるの? それとも、みんなに?)

心の中に、初めて浮かんだ小さな「嫉妬」が、ゆっくりと染み込んでいく。

こんなふうに感じてしまう自分が、少しだけ苦しい。

でも――それ以上に、慶の指が、喉の奥の「女」の部分をくすぐってくるのが、苦しかった。


#その手の意味を、知りたい

慶の指が、背中を撫でていた。

なにも変わらない施術のはずなのに――

その手つきが、ほんの少しだけ、熱を帯びているように感じた。

(……私、何考えてるんだろ……)

ふいに、耳元に落ちてきた声。

「……さっき、少しだけ呼吸が変わりましたね」

低く、柔らかいトーン。

それだけで、身体の奥に火が灯る気がする。

「緊張……じゃないですよね」

ひよりは思わず、まつ毛を震わせた。

(……それって……)

言葉にされていないのに、まるで内心をなぞられたような感覚だった。

「……オイル、香りが強かったですか?」

慶はそう続けたが――それは明らかに、“本音から逸らすような”言葉だった。

(わかってる……私の中にあった感情……ちゃんと、気づいてる……)

ひよりは俯いたまま、ベッドに沈み込むように頷いた。

すると、慶の指が一瞬止まる。

「……だったら、もう少し……“あなただけ”のために動かないと、ですね」

その言葉は囁きにも似て、空気に溶けるようだった。

だけど、確かに刺さる。

“あなた以外にもしてる”なんて思わせて、ごめん――

そう言わんばかりの、でも謝ってなどいない、絶妙な距離感。

(……ずるいよ、ほんと……)

ひよりの胸の奥にある独占欲が、さっきよりも少しだけ形を持ちはじめる。

“自分だけに向いてほしい”という願いが、静かに疼いていた。


#私だけに、そうしてくれるの?

ひよりの背に沿って流れていた慶の指が、

肩のあたりで、ふと止まる。

オイルが肌に馴染みきる頃、

その手のひらが――そっと、髪に触れた。

「……広がってましたね」

囁くような声とともに、

ひよりの耳元へ、すべるように手が伸びる。

空調の静かな音に紛れて、

慶の吐息だけが、頬の産毛に微かに触れる。

(……近い。息、聞こえる……)

それなのに。

唇は触れてこない。

触れそうで――触れない。

(……そんなの、ずるい……)

瞼を閉じたまま、ひよりの胸がまた震え始める。

高まった体温のせいなのか、

息が浅くなってるのは、きっと気づかれてる。

「……どうしました?」

低く響く声が、耳のすぐ近く。

気づいているのに、問いかける。

(……わかってるくせに……)

言えないまま、小さく首を振ると、

慶はそのまま、ひよりの手をそっと取った。

滑るように、ひよりの手のひらを包み込んで、

まるで導くように――その手を、自分の口元へと運ぶ。

唇の直前。

ほんの数ミリ、熱が交わりそうな距離で――止まった。

ひよりの指先に、慶の吐息がふっとかかる。

「触れたら……止まれなくなりそうだから」

そう囁いた声に、ひよりの胸が強く跳ねた。

(……だったら、触れてよ……)

心の奥で、そんな声が叫んでいたけど。

唇は震えるだけで、何も言えない。

その時、慶の視線がそっと、ひよりの瞳を覗き込む。

「……そんな目で見ないでください」

「……どうして……」

「……他の人には、こんなふうにしませんよ」

(……っ、バレてた……)

“他の女の人にも、こうしてるのかな”

そんな仄かな嫉妬が滲んだ一瞬を――

慶は見逃さなかった。

ひよりの胸の奥で、甘く切ない熱が滲む。

安心と、欲望と、何かがせめぎ合うように。

「……あなたって、本当に」

「可愛い反応、しますよね」

ふとした瞬間に零れるような声。

それはいつもの柔らかさのまま――

だけど、ほんの少しだけ深く、低く落ちていた。

「……触れてしまいたくなるくらいに、可愛い」

息だけが触れているのに、唇は遠いまま。

だからこそ、ひよりの鼓動は苦しくなるほど跳ねた。

(……そんな風に言うの、ずるいよ……)

指先が、耳の後ろをそっと撫でていく。

優しくて、意地悪な焦らし方。

どこにも触れていないはずなのに――身体の芯がきゅっと疼く。

その言葉に、ひよりの喉がかすかに鳴った。

呼吸が浅くなっているのを、自分でも感じる。

だけど、慶はそれ以上は近づかない。

(……なんで。そんなに近いのに……)

慶の指が、うなじの髪をそっと払った。

その瞬間、口元が……肌に、ふれるか、ふれないかの距離に落ちてくる。

「……こうしたら、驚きますか?」

熱を帯びた息だけが、首筋を撫でた。

でも、唇は決して触れない。

触れてしまえば、何かが崩れてしまうとわかっているかのように。

この距離が、唇よりも罪だった。

なのに――ひよりは、慶の視線がまた少し遠くにあることに気づいてしまう。

距離を詰めたのは、あくまで彼。

ひよりはまだ、そこに置いていかれたままだ。

(……ねぇ、慶さん。

 誰にでも……こんなふうに、するの……?)

ほんのり滲んだ疑念と独占欲。

声には出せないけれど、鼓動が代わりにその想いを訴えていた。

「……ちゃんと、“あなただけ”ですから」

まるで、心を読んだように――

慶の声が、そっと降ってきた。

(……気づいてたの? 全部、気づいてて……)

何も言えなくなって、ひよりは俯いた。

頬に触れる指が、ほんの少し、動く。

「そんな表情、見たら……触れたくなってしまうでしょう」

低く囁かれた声。

 息がかかるほど近くて、キスよりも甘いのに。

……けれど、慶の唇は触れなかった。

彼の顔が、ほんの数センチだけ離れていく。

届きそうなのに、掠らない。

(……やっぱり、触れてはくれないんだ)

苦しくなるほどの安堵と、胸を締めつけるような切なさが同時に押し寄せた。

――このまま、何も起きずに終わる。

……そう思っていたのに。


帰り際。

扉の前で靴を履こうとしたとき、慶の指が、もう一度だけ、ひよりの髪に触れた。

「……また、来てくれますか」

その言葉が、くすぐるように耳に残る。

ひよりは小さく頷いた。

胸が軽くなったのに、なぜか痛い。

声にならないまま、静かに熱くなっていた。

続く…

♡この物語の空気を、現実でも少しだけ。

夜のおともに…♡

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