密室セラピーⅢ その心、解けるまで―


 

前回のお話

 

 

「…君だけが、特別だよ」

限界ぎりぎりで止まった、あの夜。

壊されなかったことが嬉しくて──でも、どこか物足りなかった。

ふたりの関係はまだ”施術”の中にある。

けれど、彼の言葉と手の温度が、ひよりの心をじわじわと溶かしていく。

再び訪れたサロン。

その夜、想定外の”再開”と”保護”が、彼女の中にある記憶を呼び起こす。

 

 

※この空気が好きな方へ

ひとりの夜に向けたページ、まとめています。

 

 


#夜、止まらない余韻

部屋に戻ったあとも、
ひよりの身体には、慶の手の温度が残っていた。

シャワーを浴びても、ベッドに潜っても、
耳元に残る声と吐息が、何度も蘇ってくる。

(……“君だけが特別”って、あれ……)

寝返りを打つたびに、
首筋に触れた唇の熱を思い出す。

シーツの中で、ひとり、
知らずに脚を擦り合わせていた。

「……だめ、こんなの……」

何度目かのため息。
けれど、意識は勝手に、彼の指の感触を再生し始める。

自分の肌が、
あのときよりもずっと敏感になっているのが分かった。

──気づけばスマホに手を伸ばしていた。

LINEトーク画面の、
『また会える日を待ってる』の文字が、胸の奥をじんわりとくすぐる。

(……こんなふうに思うなんて、変かな……)

だけど、次に思い浮かんだのは、
あのときの、彼の指が止まった“最後の場面”だった。

『今日は──ここまでだね』

限界まで攻めながらも、
ギリギリのところで踏みとどまった慶の声。

──あのとき、本当はもっと……

ひよりは、唇を噛んだ。

(……私、壊れてもいいって……どこかで、思ってたのかもしれない)

でも、彼は壊さなかった。

そのことが、
怖いくらい嬉しくて、
怖いくらい物足りなかった。

(……もう一度だけ、確かめたい……)

タップした画面に、
もうすぐ「次の予約」が追加される。

けれど、それはもう“施術”じゃない気がしていた。

(ねえ……慶さん。今度こそ──)

欲しいのは、触れられることだけじゃない。
あの低く囁く声と、
理性と欲の境界を揺らすような、甘い支配の時間。

身体も、心も、
気づけば彼の言葉に、とっくに開かれていた。


#再来店──空気の違い

ガラス扉を開けた瞬間、
ひよりの肌に、心地よいラベンダーの香りがふわりと絡みつく。

けれど、今日は何かが違っていた。
音楽のボリューム、室温、空気の湿度──
どれも前回より、ほんの少しだけ“濃い”。

「……いらっしゃい、ひよりさん」

慶の声が、静かに降る。

それだけで、
背筋がすっと伸びるのを感じた。

(……あ、また“ひよりさん”って……)

いつも通りの、穏やかで礼儀正しい接客。
けれど、目が合った一瞬だけ、
彼の瞳がまるで──喉奥に渇きを滲ませているように見えた。

「お部屋、ご案内しますね」

慶の手が、
ほんのわずかに腰のあたりに触れる。

(やっぱり……何か、違う)

施術台に横たわると、 タオル越しに感じる手のひらが、
どこか深く──探るようだった。

「お身体……少し熱がありますね」
「……もしかして、昨夜あまり眠れなかったのでは?」

図星だった。

指先が背筋をなぞるたびに、 ひよりの肌が“応えて”しまっている。

(……だめ。今日は、落ち着いて、ちゃんと……)

そう思ったはずなのに。

腰のあたりに触れる手が、 “施術”として許される境界を、すでに曖昧にしている。

(だめ、これ以上踏み込んだら…戻れないかも…)

「ひよりさん、深呼吸して」
「……もっと、素直に委ねてくださいね」

耳元で囁かれた瞬間、胸の奥にしまっていた欲が、はっきりと疼いた。

(……慶さん、どうして……)

この人も、もう
“セラピスト”としてではなく、
“女”としての自分を見ている──

その確信に、ひよりの喉が、音を立てて震えた。


#施術の終わりと、揺れる余韻

「……これで、今日の施術は終了です」

慶の声がいつもより少しだけ低く、柔らかく響いた。

タオルを外された背中に、空気が触れる。

だけど、火照った肌は、さっきまでの手のひらの温度を拒んでいない。

「お疲れさまでした。立ちくらみなどありませんか?」

ひよりは、ゆっくりと身体を起こした。

「……はい。大丈夫です」

そう答えながらも、 足元はふわふわとして、現実感が少し遠い。

慶が差し出したミネラルウォーターを受け取る。

冷たい感触が、唇を通して神経を刺激した。

「少しこのまま、ここで落ち着いてから帰られても構いませんよ」
「タクシーも、もしご希望でしたらこちらで手配できますので」

その言葉に、ひよりは少しだけ微笑む。

「……いえ。少し歩いて帰ります」

「そうですか……お気をつけて」

何も言わず、 慶は軽く頭を下げただけだった。

だけど、 視線が、最後まで彼女の手元に残っていたことに、
ひよりは気づいていた。


#夜の街――不意打ちの影

ラベンダーの香りが微かに残るシャツを着たまま、
夜の街にひよりは歩き出した。

道沿いに並ぶ店の灯りが、
ぼんやりと視界をにじませる。

(……ちょっと、歩きたかっただけ)
(……気持ち、落ち着かせないと)

身体の奥に残る熱が、
まだ、静かに疼いていた。

ふと、前方から聞き覚えのある声がした。

「……あれ? もしかして、水沢さん?」

その声に、 心臓が跳ねる。

振り返れば、避けてきた”過去が”そこに立っていた。

「久しぶり。こんなとこで会うなんて奇遇だね」
「元気そうじゃん、今どんな仕事してるの?」

軽い調子で話しかけられるたびに、ひよりの視界がぐらつく。

足元がふらつき、呼吸が浅くなる。

「……あ……あの……」

言葉が出ない。

(……やだ……)

視界の端が揺れ、足元がふらついた。

「え? 大丈夫? 顔、真っ青だよ……」

彼が近づこうとするその瞬間──

「すみません、彼女、僕の知人です」

背後から落ち着いた声が割り込んできた。

「ひよりさん……」

支えるように伸びた手が、
震える彼女の肩を、そっと包む。

「っ……けい、さ……」

小さく名前を呼んだ瞬間、
ひよりはその場に崩れ落ちた。

しゃがみ込む身体を、 慶はすぐに抱きとめるように支えながら、
彼女の背を優しく擦った。

「大丈夫です。少し過呼吸気味なだけなので……」

男が気まずそうに離れていく気配。

ひよりは慶の胸元に顔を埋めたまま震えを止められなかった。

(……どうして、こんなときに)
(でも……会えて…よかった……)

慶の手が、彼女の髪にそっと触れた。

その温度に──
さっきまで感じていた、背中の手のひらの感触と、
まったく同じ“やさしさ”が、あった。

「……ひよりさん、大丈夫ですか?」

しゃがみ込む彼の声が、遠くのほうから聞こえる気がした。
視界が歪む。
呼吸が浅く、速く、喉の奥で何かがつかえたように苦しい。

「……ちょっと、落ち着いて……大きく、息を吸って……」

慶がそっと背中に触れた。
それだけで、ぎゅっと張りつめていたものが一気に緩んでいく。

(やばい、倒れ──)

重力がぐらりと傾いた瞬間、
すぐに彼の腕が肩を支えていた。

「……このままじゃ危ないですね。家、すぐそこなんです」
「少しだけ……休んでいきませんか」

息苦しさの中でも、その言葉だけはちゃんと聞こえた。
どこまでも優しくて、どこか強引で──
だけど、不思議と嫌じゃなかった。

ひよりは、こくりと頷いた。


#静かな部屋で

玄関をくぐった瞬間、ひよりは無意識に呼吸を浅くした。

(……香水じゃない、でも、どこか深く甘い匂い……)

室内は整然としていて、生活感を抑えたシンプルな空間――のはずなのに、

足元のラグ、壁の色味、間接照明の光の落ち方……

どれもが妙に「男の部屋」だということを意識させた。

「どうぞ。奥、ベッドに座っててください。クッション寄せておきますね」

慶の声はあくまで穏やかで、普段通りだった。

それなのに──空気が違って見える。

(……男の人の部屋、なんて……)

何気ない照明やインテリア、

玄関に並ぶスニーカーや本棚の並びにさえ、

ひよりの視線がいちいち反応してしまう。

(……女の人、連れてきたこと……あるのかな)
(……でも、そんな気配はない…ような…)

ふと、そんなことがよぎって、慌ててかぶりを振った。

「すぐお水持ってきますね。冷蔵庫のものでいいかな」

「あ、はい……ありがとうございます……」

慶がキッチンの方へ向かっていった時、

ひよりはベッドの縁に腰を下ろしながら、何とも言えないそわそわを抱えていた。

(なんで……こんなに緊張してるんだろ……)

──“このあと、どうなるんだろう”って、思ってるから。

頭のどこかが、そう答えた。

数分後、グラスを手に戻ってきた慶が、何気ない声で聞いた。

「ひよりさん、今日このあと予定とかありますか?」

「え……いえ、ないですけど……」

「ご自宅ってこの辺から近い? 帰るのにどれくらいかかるかなって」

「……30分くらいは、かかります」

「そっか。……ちょっとだけ、休んでいきましょうか。無理させたくないし」

グラスを手渡しながら、慶はふっと優しく微笑んだ。

その自然な優しさが、逆に心を揺らす。

(……これも、仕事のうち?

それとも、ただの親切?

それとも――私が、特別だから?)

ひよりの胸の奥で、答えの出ない問いが渦巻いていた。

彼の視線は、変わらず柔らかい。

だけど、どこかで──「この人は、私のすべてを見透かしてる」

そんな気配も、確かに感じていた。

(……怖い。でも、逃げたくない)

「…無理に話さなくて大丈夫です。……でも」
「さっきの表情が、ちょっとだけ……痛そうに見えました」

「……っ……」

水を飲んだ直後だったのに、ひよりの喉が詰まる。
たった一言が、胸の奥を強く揺らす。

「誰かに会ってたんですか?……すごく、動揺されてました」

黙ることもできた。
笑って誤魔化すこともできた。

だけど。

(……あんなふうに、抱きとめてくれて……)
(……“壊さなかった”の、この人だった……)

喉の奥が詰まって、言葉に触れた瞬間に泣いてしまいそうで、息が止まる。

止めようとしても、言葉がこぼれた。

「……昔、付き合ってた人、だったんです」
「ずっと……苦手で……会うと、動悸が止まらなくなって……」
「でも、仕事が絡んでて……どうしても、無視できなくて」

止めようとしても止まらなかった。

「誰に話しても、“気のせい”って言われて、笑われて……」
「でも、怖くて、逃げたくて、逃げられなくて……」

「ひよりさん」

低くて優しい声。

そっと重ねられた手の温度が、涙腺の奥を静かに溶かす。

「……もう、無理に我慢しなくていいですよ」

「でも……私、泣きたくなったらすぐ泣いちゃうし、感情がうまく抑えられなくて……」
「弱いんです……こういう時、いつも、誰にも頼れなくて」

「弱いままでいていいんです」
「……誰かの前で、素直でいられるのは、強い人だけですよ」

その言葉に、 ひよりの涙が、落ちた。

拭う前に、彼がそっと、ハンカチを差し出す。

それだけで、心の奥のほうが、少しずつ溶けていく気がした。

(……ああ……)

この人となら──
“心”を、解けるかもしれない。


#見送られる帰り道

タクシーが静かに止まる音が、窓の外から聞こえた。

ひよりが時計を見て驚いたように身を起こすと、
慶はソファに寄りかかったまま、やわらかく微笑んだ。

「さっき、休んでもらってる間に呼んでおいた。もう支払いも済ませてある。後はそのまま乗るだけで、いいですよ」

「え……?」

言葉を失いながら、ひよりは慶の顔を見つめた。

さっきまで、過呼吸で苦しんでいた自分を支えながら、 冷静に、何も言わずに、ここまで配慮してくれていた。

(いつの間に……)

慶の手際の良さに、 そしてその優しさに、胸の奥がじんわりと熱くなる。

ひよりは思わず、鞄から財布を取り出しかける。

「……あの、これ……お支払いさせてください」

けれど、慶はひよりの手を静かに抑えた。

「いいんだ。これは……施術の一環みたいなものだから」

「でも……」

「それに、ひよりさんに倒れられたら──僕、たぶん普通じゃいられなくなる」
「ひよりさんが苦しむのは・・・見たくないんだ」

その言葉に、ひよりの呼吸がふと止まる。

(……“普通じゃいられない”……?)

それは、セラピストとしての言葉じゃなかった。 もっと、別の感情が、言葉の奥に滲んでいた。

財布を閉じながら、 ひよりの心に、ふと疑問が浮かぶ。

(……どうして、ここまでしてくれるの?)

仕事だから? ただの親切だから? それとも──

答えの出ないまま、 ひよりは、そっと玄関に向かう。

でも、その背中に残る慶のまなざしは、 どこか切なさを帯びていて。

(……私、また来ていいのかな……)

そんな思いが、 胸の奥に、静かに芽生え始めていた。

「……今日、慶さんがいてくれて……助かりました」

「……ひよりさんのことは、いつだって迎えに行けますから」

タクシーのドアを開けた時、
ひよりは、もう振り返らなかった。

それはたぶん、
いま顔を見てしまったら──

“次は、ちゃんと会いたくなる”から。

ガラス越しに見える、静かな慶の姿。

エンジン音が動き出した瞬間、
彼の表情が、そっとほどけて見えた気がした。

(……また、会いに行ってもいいですか?)

スマホの画面に、返信用のトーク画面がひとつ、開いたままになっている。

(“また会える日を、待ってる”……か)

夜の街に、ひよりを乗せたタクシーが静かに走り出す。

走り出す車内で、さっき握ったスカートの裾に残る温度だけが、静かに熱を持ち続けていた。

揺れる街頭の明かりの中、ひよりの指先がそっとスマホを握りなおした。


#心のざわめき

自宅に帰宅後…、ソファに寄りかかって、

ぬるくなった紅茶を見つめる。

(……何で、ここまでしてくれるんだろう)

一度も問いかけなかった疑問が、

今さらになって胸の奥で膨らんでくる。

タクシーも、支払いも、私が倒れるかもしれないって判断も、

全部、慶さんが一人で決めて動いていた。

(優しいだけ……? それとも、“お客さん”だから……?)

わからなかった。

慶の言葉も、仕草も、全部が自然で──

だからこそ、境界がぼやけてしまう。

(仕事としての優しさなのか、

それとも……私を、特別に思ってくれてるのか)

そう思ってしまうのが、図々しいのかなって、

また自分で自分の気持ちに蓋をしようとする。

だけど。

(……違う)

さっきの、あの声。

「ひよりさんのことは、いつだって迎えに行けますから」

あれは、セラピストの“台詞”じゃない。

(私のこと、ちゃんと見てくれてる……よね…?)
(……こんな気持ちになりたくなかったのに…)
(でも、思い出すのは…あの人の手の温度ばかりで──)

そう思った瞬間、

胸の奥が、じわりと温かくなった。

“好きになってはいけない人”──

そんな言葉は、

とっくに心の奥で崩れかけていた。

 

次のお話

 

♡この物語の空気を、現実でも少しだけ。

夜のおともに…♡

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