「…君だけが、特別だよ」
限界ぎりぎりで止まった、あの夜。
壊されなかったことが嬉しくて──でも、どこか物足りなかった。
ふたりの関係はまだ”施術”の中にある。
けれど、彼の言葉と手の温度が、ひよりの心をじわじわと溶かしていく。
再び訪れたサロン。
その夜、想定外の”再開”と”保護”が、彼女の中にある記憶を呼び起こす。
※この空気が好きな方へ
#夜、止まらない余韻
部屋に戻ったあとも、
ひよりの身体には、慶の手の温度が残っていた。
シャワーを浴びても、ベッドに潜っても、
耳元に残る声と吐息が、何度も蘇ってくる。
(……“君だけが特別”って、あれ……)
寝返りを打つたびに、
首筋に触れた唇の熱を思い出す。
シーツの中で、ひとり、
知らずに脚を擦り合わせていた。
「……だめ、こんなの……」
何度目かのため息。
けれど、意識は勝手に、彼の指の感触を再生し始める。
自分の肌が、
あのときよりもずっと敏感になっているのが分かった。
──気づけばスマホに手を伸ばしていた。
LINEトーク画面の、
『また会える日を待ってる』の文字が、胸の奥をじんわりとくすぐる。
(……こんなふうに思うなんて、変かな……)
だけど、次に思い浮かんだのは、
あのときの、彼の指が止まった“最後の場面”だった。
『今日は──ここまでだね』
限界まで攻めながらも、
ギリギリのところで踏みとどまった慶の声。
──あのとき、本当はもっと……
ひよりは、唇を噛んだ。
(……私、壊れてもいいって……どこかで、思ってたのかもしれない)
でも、彼は壊さなかった。
そのことが、
怖いくらい嬉しくて、
怖いくらい物足りなかった。
(……もう一度だけ、確かめたい……)
タップした画面に、
もうすぐ「次の予約」が追加される。
けれど、それはもう“施術”じゃない気がしていた。
(ねえ……慶さん。今度こそ──)
欲しいのは、触れられることだけじゃない。
あの低く囁く声と、
理性と欲の境界を揺らすような、甘い支配の時間。
身体も、心も、
気づけば彼の言葉に、とっくに開かれていた。
#再来店──空気の違い
ガラス扉を開けた瞬間、
ひよりの肌に、心地よいラベンダーの香りがふわりと絡みつく。
けれど、今日は何かが違っていた。
音楽のボリューム、室温、空気の湿度──
どれも前回より、ほんの少しだけ“濃い”。
「……いらっしゃい、ひよりさん」
慶の声が、静かに降る。
それだけで、
背筋がすっと伸びるのを感じた。
(……あ、また“ひよりさん”って……)
いつも通りの、穏やかで礼儀正しい接客。
けれど、目が合った一瞬だけ、
彼の瞳がまるで──喉奥に渇きを滲ませているように見えた。
「お部屋、ご案内しますね」
慶の手が、
ほんのわずかに腰のあたりに触れる。
(やっぱり……何か、違う)
施術台に横たわると、 タオル越しに感じる手のひらが、
どこか深く──探るようだった。
「お身体……少し熱がありますね」
「……もしかして、昨夜あまり眠れなかったのでは?」
図星だった。
指先が背筋をなぞるたびに、 ひよりの肌が“応えて”しまっている。
(……だめ。今日は、落ち着いて、ちゃんと……)
そう思ったはずなのに。
腰のあたりに触れる手が、 “施術”として許される境界を、すでに曖昧にしている。
(だめ、これ以上踏み込んだら…戻れないかも…)
「ひよりさん、深呼吸して」
「……もっと、素直に委ねてくださいね」
耳元で囁かれた瞬間、胸の奥にしまっていた欲が、はっきりと疼いた。
(……慶さん、どうして……)
この人も、もう
“セラピスト”としてではなく、
“女”としての自分を見ている──
その確信に、ひよりの喉が、音を立てて震えた。
#施術の終わりと、揺れる余韻
「……これで、今日の施術は終了です」
慶の声がいつもより少しだけ低く、柔らかく響いた。
タオルを外された背中に、空気が触れる。
だけど、火照った肌は、さっきまでの手のひらの温度を拒んでいない。
「お疲れさまでした。立ちくらみなどありませんか?」
ひよりは、ゆっくりと身体を起こした。
「……はい。大丈夫です」
そう答えながらも、 足元はふわふわとして、現実感が少し遠い。
慶が差し出したミネラルウォーターを受け取る。
冷たい感触が、唇を通して神経を刺激した。
「少しこのまま、ここで落ち着いてから帰られても構いませんよ」
「タクシーも、もしご希望でしたらこちらで手配できますので」
その言葉に、ひよりは少しだけ微笑む。
「……いえ。少し歩いて帰ります」
「そうですか……お気をつけて」
何も言わず、 慶は軽く頭を下げただけだった。
だけど、 視線が、最後まで彼女の手元に残っていたことに、
ひよりは気づいていた。
#夜の街――不意打ちの影
ラベンダーの香りが微かに残るシャツを着たまま、
夜の街にひよりは歩き出した。
道沿いに並ぶ店の灯りが、
ぼんやりと視界をにじませる。
(……ちょっと、歩きたかっただけ)
(……気持ち、落ち着かせないと)
身体の奥に残る熱が、
まだ、静かに疼いていた。
ふと、前方から聞き覚えのある声がした。
「……あれ? もしかして、水沢さん?」
その声に、 心臓が跳ねる。
振り返れば、避けてきた”過去が”そこに立っていた。
「久しぶり。こんなとこで会うなんて奇遇だね」
「元気そうじゃん、今どんな仕事してるの?」
軽い調子で話しかけられるたびに、ひよりの視界がぐらつく。
足元がふらつき、呼吸が浅くなる。
「……あ……あの……」
言葉が出ない。
(……やだ……)
視界の端が揺れ、足元がふらついた。
「え? 大丈夫? 顔、真っ青だよ……」
彼が近づこうとするその瞬間──
「すみません、彼女、僕の知人です」
背後から落ち着いた声が割り込んできた。
「ひよりさん……」
支えるように伸びた手が、
震える彼女の肩を、そっと包む。
「っ……けい、さ……」
小さく名前を呼んだ瞬間、
ひよりはその場に崩れ落ちた。
しゃがみ込む身体を、 慶はすぐに抱きとめるように支えながら、
彼女の背を優しく擦った。
「大丈夫です。少し過呼吸気味なだけなので……」
男が気まずそうに離れていく気配。
ひよりは慶の胸元に顔を埋めたまま震えを止められなかった。
(……どうして、こんなときに)
(でも……会えて…よかった……)
慶の手が、彼女の髪にそっと触れた。
その温度に──
さっきまで感じていた、背中の手のひらの感触と、
まったく同じ“やさしさ”が、あった。
「……ひよりさん、大丈夫ですか?」
しゃがみ込む彼の声が、遠くのほうから聞こえる気がした。
視界が歪む。
呼吸が浅く、速く、喉の奥で何かがつかえたように苦しい。
「……ちょっと、落ち着いて……大きく、息を吸って……」
慶がそっと背中に触れた。
それだけで、ぎゅっと張りつめていたものが一気に緩んでいく。
(やばい、倒れ──)
重力がぐらりと傾いた瞬間、
すぐに彼の腕が肩を支えていた。
「……このままじゃ危ないですね。家、すぐそこなんです」
「少しだけ……休んでいきませんか」
息苦しさの中でも、その言葉だけはちゃんと聞こえた。
どこまでも優しくて、どこか強引で──
だけど、不思議と嫌じゃなかった。
ひよりは、こくりと頷いた。
#静かな部屋で
玄関をくぐった瞬間、ひよりは無意識に呼吸を浅くした。
(……香水じゃない、でも、どこか深く甘い匂い……)
室内は整然としていて、生活感を抑えたシンプルな空間――のはずなのに、
足元のラグ、壁の色味、間接照明の光の落ち方……
どれもが妙に「男の部屋」だということを意識させた。
「どうぞ。奥、ベッドに座っててください。クッション寄せておきますね」
慶の声はあくまで穏やかで、普段通りだった。
それなのに──空気が違って見える。
(……男の人の部屋、なんて……)
何気ない照明やインテリア、
玄関に並ぶスニーカーや本棚の並びにさえ、
ひよりの視線がいちいち反応してしまう。
(……女の人、連れてきたこと……あるのかな)
(……でも、そんな気配はない…ような…)
ふと、そんなことがよぎって、慌ててかぶりを振った。
「すぐお水持ってきますね。冷蔵庫のものでいいかな」
「あ、はい……ありがとうございます……」
慶がキッチンの方へ向かっていった時、
ひよりはベッドの縁に腰を下ろしながら、何とも言えないそわそわを抱えていた。
(なんで……こんなに緊張してるんだろ……)
──“このあと、どうなるんだろう”って、思ってるから。
頭のどこかが、そう答えた。
数分後、グラスを手に戻ってきた慶が、何気ない声で聞いた。
「ひよりさん、今日このあと予定とかありますか?」
「え……いえ、ないですけど……」
「ご自宅ってこの辺から近い? 帰るのにどれくらいかかるかなって」
「……30分くらいは、かかります」
「そっか。……ちょっとだけ、休んでいきましょうか。無理させたくないし」
グラスを手渡しながら、慶はふっと優しく微笑んだ。
その自然な優しさが、逆に心を揺らす。
(……これも、仕事のうち?
それとも、ただの親切?
それとも――私が、特別だから?)
ひよりの胸の奥で、答えの出ない問いが渦巻いていた。
彼の視線は、変わらず柔らかい。
だけど、どこかで──「この人は、私のすべてを見透かしてる」
そんな気配も、確かに感じていた。
(……怖い。でも、逃げたくない)
「…無理に話さなくて大丈夫です。……でも」
「さっきの表情が、ちょっとだけ……痛そうに見えました」
「……っ……」
水を飲んだ直後だったのに、ひよりの喉が詰まる。
たった一言が、胸の奥を強く揺らす。
「誰かに会ってたんですか?……すごく、動揺されてました」
黙ることもできた。
笑って誤魔化すこともできた。
だけど。
(……あんなふうに、抱きとめてくれて……)
(……“壊さなかった”の、この人だった……)
喉の奥が詰まって、言葉に触れた瞬間に泣いてしまいそうで、息が止まる。
止めようとしても、言葉がこぼれた。
「……昔、付き合ってた人、だったんです」
「ずっと……苦手で……会うと、動悸が止まらなくなって……」
「でも、仕事が絡んでて……どうしても、無視できなくて」
止めようとしても止まらなかった。
「誰に話しても、“気のせい”って言われて、笑われて……」
「でも、怖くて、逃げたくて、逃げられなくて……」
「ひよりさん」
低くて優しい声。
そっと重ねられた手の温度が、涙腺の奥を静かに溶かす。
「……もう、無理に我慢しなくていいですよ」
「でも……私、泣きたくなったらすぐ泣いちゃうし、感情がうまく抑えられなくて……」
「弱いんです……こういう時、いつも、誰にも頼れなくて」
「弱いままでいていいんです」
「……誰かの前で、素直でいられるのは、強い人だけですよ」
その言葉に、 ひよりの涙が、落ちた。
拭う前に、彼がそっと、ハンカチを差し出す。
それだけで、心の奥のほうが、少しずつ溶けていく気がした。
(……ああ……)
この人となら──
“心”を、解けるかもしれない。
#見送られる帰り道
タクシーが静かに止まる音が、窓の外から聞こえた。
ひよりが時計を見て驚いたように身を起こすと、
慶はソファに寄りかかったまま、やわらかく微笑んだ。
「さっき、休んでもらってる間に呼んでおいた。もう支払いも済ませてある。後はそのまま乗るだけで、いいですよ」
「え……?」
言葉を失いながら、ひよりは慶の顔を見つめた。
さっきまで、過呼吸で苦しんでいた自分を支えながら、 冷静に、何も言わずに、ここまで配慮してくれていた。
(いつの間に……)
慶の手際の良さに、 そしてその優しさに、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ひよりは思わず、鞄から財布を取り出しかける。
「……あの、これ……お支払いさせてください」
けれど、慶はひよりの手を静かに抑えた。
「いいんだ。これは……施術の一環みたいなものだから」
「でも……」
「それに、ひよりさんに倒れられたら──僕、たぶん普通じゃいられなくなる」
「ひよりさんが苦しむのは・・・見たくないんだ」
その言葉に、ひよりの呼吸がふと止まる。
(……“普通じゃいられない”……?)
それは、セラピストとしての言葉じゃなかった。 もっと、別の感情が、言葉の奥に滲んでいた。
財布を閉じながら、 ひよりの心に、ふと疑問が浮かぶ。
(……どうして、ここまでしてくれるの?)
仕事だから? ただの親切だから? それとも──
答えの出ないまま、 ひよりは、そっと玄関に向かう。
でも、その背中に残る慶のまなざしは、 どこか切なさを帯びていて。
(……私、また来ていいのかな……)
そんな思いが、 胸の奥に、静かに芽生え始めていた。
「……今日、慶さんがいてくれて……助かりました」
「……ひよりさんのことは、いつだって迎えに行けますから」
タクシーのドアを開けた時、
ひよりは、もう振り返らなかった。
それはたぶん、
いま顔を見てしまったら──
“次は、ちゃんと会いたくなる”から。
ガラス越しに見える、静かな慶の姿。
エンジン音が動き出した瞬間、
彼の表情が、そっとほどけて見えた気がした。
(……また、会いに行ってもいいですか?)
スマホの画面に、返信用のトーク画面がひとつ、開いたままになっている。
(“また会える日を、待ってる”……か)
夜の街に、ひよりを乗せたタクシーが静かに走り出す。
走り出す車内で、さっき握ったスカートの裾に残る温度だけが、静かに熱を持ち続けていた。
揺れる街頭の明かりの中、ひよりの指先がそっとスマホを握りなおした。
#心のざわめき
自宅に帰宅後…、ソファに寄りかかって、
ぬるくなった紅茶を見つめる。
(……何で、ここまでしてくれるんだろう)
一度も問いかけなかった疑問が、
今さらになって胸の奥で膨らんでくる。
タクシーも、支払いも、私が倒れるかもしれないって判断も、
全部、慶さんが一人で決めて動いていた。
(優しいだけ……? それとも、“お客さん”だから……?)
わからなかった。
慶の言葉も、仕草も、全部が自然で──
だからこそ、境界がぼやけてしまう。
(仕事としての優しさなのか、
それとも……私を、特別に思ってくれてるのか)
そう思ってしまうのが、図々しいのかなって、
また自分で自分の気持ちに蓋をしようとする。
だけど。
(……違う)
さっきの、あの声。
「ひよりさんのことは、いつだって迎えに行けますから」
あれは、セラピストの“台詞”じゃない。
(私のこと、ちゃんと見てくれてる……よね…?)
(……こんな気持ちになりたくなかったのに…)
(でも、思い出すのは…あの人の手の温度ばかりで──)
そう思った瞬間、
胸の奥が、じわりと温かくなった。
“好きになってはいけない人”──
そんな言葉は、
とっくに心の奥で崩れかけていた。
♡この物語の空気を、現実でも少しだけ。


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