「既婚の上司と続けた秘密の関係——
でも私のカラダは、別の男に、奥まで支配されてしまった」
職場、証拠、快楽、支配。
”逃げられない背徳”に堕ちるヒロインの官能ドラマ。
#プロローグ
──オフィスの灯りは、もう半分以上落ちていた。
背後に人の気配を感じて、如月柚葉は反射的に立ち止まる。
振り向くより先に、低い声が落ちてきた。
「まだ帰らないんだ」
それだけ。
名前も、用件もない。
振り向いた瞬間、神崎直哉は“上司の距離”に立っていた。
近くもなく、遠くもない。
けれど、その曖昧さが一番逃げづらい。
「資料、探してただけです」
嘘ではない。でも本当でもない。
直哉はそれ以上踏み込まず、デスクの端に指先を置いただけだった。
「……君、最近、顔が違う」
責める声じゃない。決めつけもしない。
だからこそ、胸の奥がざわつく。
「何が、ですか」
「自分で分かってないなら、いい」
その一言で、会話は終わったはずだった。
でも直哉は去らない。
代わりに、静かに言う。
「一つだけ、聞いていい?」
柚葉は頷いてしまう。
拒む理由が、もう思いつかない。
「もし、君が困ってるなら──
助ける方法は、いくつかある」
“いくつか”。
選択肢があるようで、どれも安全じゃない言い方。
「……考えておいて。
今すぐ答えなくていい」
そう言って、直哉は背を向ける。
触れもしない。脅しもしない。
なのに。
ドアが閉まったあとも、柚葉の胸の奥では、
“何かを選ばされる予感”だけが、じっと熱を持ち続けていた。
※この空気が好きな方へ
#優しさの皮をかぶった夜に、私は静かに堕ちていく
──シャワーの音が止んで、
東雲がバスルームの扉を開ける音が聞こえた。
柚葉はその間に、下着の肩紐をずらしながら、鏡を見ていた。
首筋にうっすら残る赤い痕。
(……また、消えるまで気をつけないと)
バスタオル姿の東雲が、ふと後ろから覗き込んでくる。
「消えなかった?」
「ううん、大丈夫」
笑ってみせると、
彼は何も言わずにその痕に唇を落とした。
やわらかく、吸い上げるようなキス。
「……そうやってすぐ、またつける」
小さく呟いた柚葉の声に、
東雲は軽く笑ってベッドへ先に戻る。
その背中を見ながら、
胸の奥が、ふいにざらついた。
(この部屋の香りも、この時間の流れも、
だんだん慣れてきてる――)
(ここは、彼の帰る場所じゃない。
それだけは、最初からわかっていたはずなのに…)
なのに、どうして。
ベッドに横になると、東雲はすぐに身体を重ねてきた。
無言で、呼吸だけを近づけて、
触れる指先がやけに丁寧だった。
乱暴じゃない。
けれど、何度も触れている場所ばかりを撫でてくる。
「どうした…あまり感じてない?」
急にそんなことを言われて、
柚葉はびくっと肩を揺らした。
「……そんなこと、ないよ」
言いながら、触れられている腰のあたりに、
微かに力が入るのを自分でも感じた。
(……違う。感じてないわけじゃないのに)
東雲は彼女の反応を確認するように、
脚を開かせ、ゆっくりと下着を指先で引き下ろす。
音はないのに、肌に触れるその感触だけがいやに鮮明で。
息を吸うだけで、
熱いところに空気が触れて、微かに疼いた。
「……もう、濡れてるね」
言葉は優しいのに、
言い方だけが妙に無機質だった。
直後、彼の指が静かに入り込む。
浅く、慎重に。
でも、それが逆に際立って感じられる。
(……こんなに、優しいのに)
心のどこかが、冷めている。
なのに、身体は裏切るように熱を帯びていく。
東雲の吐息が近づき、
ゆっくりとその中に沈み込まれる。
ゆるやかに、
奥を確かめるように動きながら、
肌と肌が重なっていく。
音も、言葉もない。
ただ、繰り返される動きと、静かな熱だけが満ちていく。
奥で、彼のものがあたたかく沈んで、
ゆっくりと擦り上げるたび、
柚葉の喉から小さな声が漏れる。
「……んっ、……ん……」
反応してしまう。
拒絶はできない。
でも、そこに渇きがある。
(こんなに優しく抱かれてるのに、
どうして……なにかが足りないの……)
動きが早まっていく。
奥を押される感覚がじわじわと強くなって、
柚葉の腰も自然と浮いていく。
「大丈夫?」
その言葉に、柚葉はわずかに頷く。
(大丈夫、だけど……)
“満たされている”のに、
どこか“埋まっていない”。
東雲の動きが深くなって、
柚葉の唇から、甘くかすれた声が漏れた。
「……あっ……ん……」
東雲はキスを重ねながら、
柚葉の頬を撫でて、
「好きだよ」と一言、囁く。
その瞬間、柚葉は目を閉じる。
拒否ではない。
ただ――何も返せない。
(ねぇ……こんなに、優しくされてるのに)
なぜ、
あの夜の、あの目の奥が、
こんなに鮮明に浮かぶんだろう。
思い出したのは、
オフィスの廊下。
自分の名前を呼んだ、低い声。
触れられていないのに、
身体が勝手に思い出してしまう、
熱の質が違う誰かの存在。
「柚葉……」
名を呼ばれて、現実に引き戻される。
そのまま、東雲は果てる。
静かに、穏やかに、
どこまでも“優しく”。
柚葉は汗をかいたままの胸元を隠しながら、
ベッドに沈んでいく。
まるで、
何もなかったように、夜が静かに終わっていく。
(優しいだけじゃ、もう、足りない)
自分で思ってしまった、その一言が――
どこまでも背徳だった。
#もう汚れていることを、見透かされた夜
シャワーの音が、まだ耳に残っていた。
何度も抱かれたあと、汗を流したはずなのに――
身体の奥に残ってるのは、別の熱だった。
(……こんなに、優しくされたのに)
東雲が寝息を立てているベッドを背に、
柚葉はスマホを手に取った。
未読の通知が、一件。
画面の上に表示された名前。
《神崎 直哉》
思わず、息が止まる。
『まだ帰ってないんだろ?
“あの部屋”の明かり、今日もついてた。』
ただ、それだけ。でも、
“見られてた”という事実が、
柚葉の背筋にざわっと熱を這わせた。
(なんで、わかるの……)
思わずカーテンを閉めた窓のほうを見やる。
誰もいないのに、誰かに見られている気配。
それが――
嫌じゃなかった。
翌日。
残業で誰もいなくなったオフィス。
柚葉はファイルをまとめ終えて、ふっと息を吐いた。
(今日は……顔を合わせずに帰れると思ったのに)
背後の気配は足音もなく、すっと近づいてくる。
「よく頑張ったな、如月」
低い声。
どこまでも落ち着いているのに、喉の奥で熱を燻らせているような響き。
「……もう、帰るところです」
足早に通り過ぎようとしたその腕を、
不意に掴まれる。強くない。
でも、逃げられない力加減で。
「待てよ。まだ、話してないだろ?」
「……話すことなんて、ありません」
「そうか?」
直哉は、一歩だけ距離を詰めた。
香水でもないのに、彼の匂いがすぐ鼻先に漂う。
「昨夜、ちゃんと愛されたか?」
喉が詰まる。
何も言っていないのに、全部見られていたような言い方。
「……盗み見でも、したんですか」
「してないよ。でも、お前の顔見ればわかる」
柚葉の頬を、指先がすっとなぞる。
触れていない。
ギリギリ、かすめるだけ。
「抱かれたあとの女の顔ってのはな――
満たされてたら、もっと柔らかくなるもんだ」
「……やめてください」
振り払おうとした指先。
でも、直哉は逃げない。
それどころか、唇のすぐ近くで、
ふっと低く、笑う。
「やっぱり……」
「な、にが……」
「お前さ。優しくされると、“大事にされてる気になる”んじゃないのか?」
耳元で囁く声が、低くて、冷たい。
「でも、その身体……今もまだ、奥が熱いままだろ」
「……っ」
図星だった。
東雲に抱かれたあと、何度も洗ったのに。
身体のどこかが、まだ火照っている。
でもそれは、愛されたからじゃない。
――何かが、足りなかったからだ。
直哉の指先が、柚葉の腰をゆるく引き寄せる。
「なあ、如月。
お前がどんなに取り繕っても、その身体は“俺じゃないと満たされない”って、もう知ってるんだよ」
「そんなこと……っ、言わないで……」
「なら、証明しろよ。
“もう他の男に抱かれてる女”が――
今、俺の声ひとつでどう反応するか」
柚葉の脚が、わずかに震える。
心が、身体が、否定してるはずなのに。
息が浅くなって、熱がじわじわと下腹に溜まっていく。
「俺に触れられたらどうなるか、思い出せよ」
耳元で落とされた声に、柚葉は唇を噛んで、それでも逃げなかった。
直哉の手が触れたのは、ただ髪の毛先。
肌には直接触れていない。
でも――
柚葉の身体の奥が、音もなく疼いた。
(……怖い)
(でも……この感覚を、
私はずっと、待ってた……)
その瞬間、直哉は一言だけ呟いた。
「……汚れたお前の方が、俺は好きだ」
拒絶すべきなのに、柚葉の胸の奥で何かが、
とろりと融ける音がした。
その夜。
直哉からは、何の連絡も来なかった。
でも柚葉の身体は、勝手に疼いて、
ベッドの中で何度も脚を擦り合わせていた。
「……あんな言い方……最低……」
そう言いながらも、脳裏で反芻してしまう。
「汚れたお前の方が、好きだ」
満たされなかった心に、その言葉だけが、
なぜか甘く滲んで離れなかった。
#お前の全部で、黙らせてみろよ
夜、オフィスの照明がほとんど落ちたフロアに、
ぽつんと灯る明かりが一つ。
「……今夜だけでいいから」
東雲の声が耳の奥でまだ微かに残っていた。
帰り際、いつもよりも少し長く抱きしめられたあの瞬間。
罪悪感はあった。
でも、それ以上に、胸の奥がざわついていた。
(なんで……)
帰ってきているはずの自分が、
なぜ、またオフィスに戻っているのか。
答えは――分かっていた。
会議室の扉を開けた瞬間、
そこにいたのは、直哉だった。
背中を向けたまま、
スライド資料を確認しているふり。
「来たか」
そう言って、後ろも見ずにドアを閉める。
静かに鍵がかかる音。
柚葉の喉が詰まる。
「……何の用ですか」
問いは震えていた。
でも声に出せただけ、まだ理性が残っていた。
直哉は、ゆっくりと振り返る。
手にはスマホ。
その画面を、無言で差し出す。
映っていたのは――
夕方、東雲と歩く自分。
肩を寄せ、見上げて笑っていた。
「……これ、どういう……」
ページがスライドする。
次に映ったのは、エントランスを出て、
タクシーに乗り込むふたり。
最後に表示されたのは――
東雲の部屋の明かりの下、
カーテン越しに交わる影。
柚葉の指が、スマホから自然と離れる。
「誰が、こんな……」
「重要なのは“誰”じゃない」
直哉の声は、淡々としている。
でも、その奥に潜む熱は明らかだった。
「お前が、こういう女だってことを――
俺はちゃんと“知ってる”ってことだ」
「……脅すんですか?」
ようやく、少しだけ声が強くなった。
でもその瞬間、直哉は柚葉の目の前まで一気に距離を詰めた。
机の端に柚葉の腰がぶつかる。
後ろに逃げられない体勢。
「脅すつもりなら、今ここに来させたりしない」
低い声が耳元に落ちる。
柚葉は息を飲んだまま、視線をそらす。
でも――逃げられなかった。
「俺はただ、“黙っててほしいならどうする?”って聞きたいだけだ」
指先が、頬に触れる。
優しくもなく、荒くもない。
でも、**“選択を迫る手”**だった。
「……どうすれば……黙っててくれるんですか」
柚葉の声は、もうか細かった。
直哉の唇が、ゆるく笑う。
「簡単な話だよ。
“そのカラダで払え”って言ってるだけだ」
そう言いながら、
直哉は柚葉の手首を取り、ゆっくりと引き寄せる。
「嫌なら拒めばいい。
でも――今さら綺麗な顔しても、もう遅い」
その言葉が落ちた瞬間、
柚葉は腕を振りほどこうとした。
でも、直哉は掴まない。
代わりに、耳元で囁く。
「ほら……言えよ。
“私のせいじゃない”って。
“優しくされたから”って、全部他人のせいにしてみろよ」
呼吸が苦しくなる。
柚葉は黙ったまま、ただ首を横に振った。
その反応を、直哉はじっと見つめたまま――
そっと机の端に腰を乗せた柚葉の太ももを指先でなぞった。
直接じゃない。
スカート越しに、ゆっくりと。
それだけで、柚葉の脚がわずかに震えたのを、彼は見逃さなかった。
「反応してるじゃないか。
……東雲に抱かれてた身体のはずなのに」
その言葉に、喉が詰まる。
「身体は、嘘つけないんだよ」
さらに指先が布の上を這い上がる。
柚葉は目を閉じるしかなかった。
でも、逃げようとはしなかった。
「……黙っててください」
その声に、直哉は問う。
「代償は?」
柚葉は唇を噛んで――
ただ一度だけ、無言で頷いた。
その瞬間、直哉の手が静かに柚葉の肩を押して、
机の上に、背中をゆっくり倒すように促した。
優しさはない。
けれど、無理やりでもなかった。
ただ、拒む猶予を与えた“ふり”をしただけ。
「じゃあ証明しろ」
ボタンが外される音。
静かな会議室の中に、それだけが響く。
「お前がどれだけ汚れていても、
……俺に身体を委ねる女だって、ちゃんと教えてみせろ」
柚葉は目を閉じたまま、
何も言わずにその指先に身体を預けた。
その瞬間から、
逃げられない“代償の夜”が始まった。
#あの人の優しさが苦しくなった夜
──何度目かの“代償の夜”だった。
会議室でも、駐車場の奥でも、
エレベーターが止まらない最上階の仮眠室でも。
直哉は“本気を出さない優しさ”を徹底していた。
乱暴に見えて、ギリギリ奪わない。
強引なのに、どこかで選ばせているような態度。
その余裕が、柚葉にはたまらなく苦しかった。
(“欲しい”って思ってるの、私だけみたいで)
最初は“脅されてるだけ”だったはずなのに。
今では――
スマホが鳴る前に、無意識に化粧直しをしている自分がいた。
その夜も、“用意されたように”仮眠室の鍵が開いていた。
ドアを閉めた途端、背後から伸びた腕に腰を引き寄せられる。
「今夜も、素直じゃん」
囁きながら、直哉はスカートの生地を片手でたぐり寄せる。
「こんなに濡らしてきて……
東雲に抱かれたあとは、どれくらい経った?」
問いかけなのに、答える隙を与えない。
「なあ、答えろよ。如月」
「……二日前、です」
喉の奥で、直哉が低く笑う。
「我慢できなかったんだ。
あんな優しいだけの男じゃ、足りないって?」
指先が、“知っている場所”をなぞる。
すでに身体は、彼の手の動きに抗えない。
(これ以上、知られたくないのに)
なのに、その夜は違った。
直哉は、途中で手を止めた。
わざとらしく、柚葉の反応を眺めながら。
「……あれ? 今日は余裕そうだな」
「……え?」
「じゃあ、今日は帰るか。
ほら、十分に“代償”払ってくれたし」
背を向ける気配。
本気で帰るつもりだった。
「ま、また……今度……っ」
思わず、口をついて出た言葉。
直哉が振り返る。
にや、と笑って、静かに言った。
「なあ、如月。
もう“代償”のつもりで抱かれてないだろ?」
喉が詰まる。
直哉は近づいて、柚葉の顎を指先で持ち上げた。
「“脅されたから”って、まだ自分に言い訳してんのか」
そのまま、目を逸らさせない距離で囁く。
「もう“お前の方から俺を欲しがってる”って、
ちゃんと認めろよ」
その言葉で、柚葉の中で何かが崩れた。
逃げようともしなかった。
いや――逃げる気なんて、最初からなかった。
静かに、唇を重ねる。
命令でもなく、無理やりでもなく、
柚葉の方から求めたキス。
直哉は応える。
けれど、動きは遅い。
焦らす。試す。
どこまで求めてくるのか――全部見透かしてる目で。
そのまま、熱が深くなっていく。
指先が触れるたび、柚葉の反応があらわになるのを、
直哉はまるで**“証拠集め”のように記憶していく。
行為の最中、直哉は一言も優しくなかった。
けれど柚葉は、
今までで一番深く――とろけていた。
翌朝。
東雲からメッセージが届いていた。
『今日の夜、少しだけ会えない?
ちゃんと、話がしたい』
(“ちゃんと”って……)
柚葉はスマホを伏せたまま、
なぜかすぐに返信できなかった。
“ごめんなさい”も、“行けない”も言えずに。
――その代わりに、画面を開いて、
無意識に“直哉”の名前を探していた。
(最低……)
でも、指は止まらない。
喉が渇くように、
あの声を、あの手を、欲している自分がいた。
東雲の優しさが、
もう“重い”と感じてしまったことを、
柚葉は誰にも言えなかった。
ただ、静かに堕ちていく感覚だけが、
日々を満たしていく。
#触れてほしくないのは、他の女じゃなくて“私だけ”
金曜の終業後。
オフィスの片隅、普段あまり使われないガラス張りの応接室。
中にいたのは、直哉と――見たことのない女。
「お疲れ様です。あの、これ……」
資料を持って入った柚葉に、
直哉は一瞥だけくれて、すぐ目をそらした。
その代わり、隣に座っていた女がにこっと微笑む。
「ありがとうございます。あっ、如月さんですよね?
直哉さんから聞いてますよ」
“直哉さん”――
その呼び方に、背中の奥がざわっと震えた。
(……誰?)
それだけで十分だった。
なのに女は続けた。
「私、昔からの知り合いで。
海外から一時帰国してて、久々に会ってたんです」
「ああ、話す必要ないよ。柚葉には」
直哉の言葉。
何気ないようで、完全な拒絶だった。
(……“柚葉には”?)
その夜、柚葉は帰るふりをして応接室の隣の廊下で足を止めていた。
ガラス越しに見える、
女の指が直哉のネクタイに触れる。
「昔と変わらないね、そういうとこ」
「お前も。軽口ばっかりで」
笑い合うふたり。
恋人の会話じゃない。
でも、親しい。
“見せつける”には十分すぎた。
深夜。
会社を出るときには、もう全員が帰っていた。
エレベーターの扉が閉まる寸前――
直哉がすっと入ってきた。
無言のまま、狭い密室でふたりきりになる。
「帰ると思ってた」
「……帰ろうとした」
「で、やっぱり戻ってきた」
ただの会話なのに、
全てを見透かされている気がした。
エレベーターが停止するフロアに着いても、
柚葉は降りなかった。
直哉も、動かなかった。
沈黙。
その空気に耐えきれず、柚葉が呟くように言った。
「……あの人、誰なんですか」
直哉は答えない。
ただ、静かにこちらを見る。
「昔の知り合いってだけ」
「そうやって……誰にでも、ああいう顔するんですか?」
「どういう顔?」
その目が挑むように向けられる。
「他の女にも、
……あんなふうに優しくするんですか?」
声が震えていた。
(聞くつもりなんてなかったのに……)
でも、もう止まらなかった。
「私……触ってほしいと思ってるの、
……あなただけなのに……」
エレベーターの中。
柚葉の声が、はっきりと落ちた。
その瞬間、直哉の目がわずかに細まる。
「……嫉妬?」
言葉にならないまま、柚葉は唇を噛む。
(そうだよ……
私は、あなたにだけ、見ててほしいのに)
手が伸びてきた。
頬に触れ、そっと持ち上げられる。
「素直になるの、ちょっと遅かったな」
「……なんで、あんな女を……っ」
「お前が、“俺を欲しがってる”って気づかせるためだよ」
囁きと同時に、唇が落ちる。
優しくなんてなかった。
けれど、柚葉の脚は震え、
腰がわずかに浮いていた。
(……私、もう完全に)
欲しがってる。
所有したがってる。
独り占めしたがってる。
「俺にだけ、触れられたい?」
「……うん……っ」
「じゃあ証明してみろよ。
“他の女はもういらない”って、
お前の身体で、俺に叩き込んでこい」
柚葉の手が、自分からシャツのボタンに伸びていた。
拒否も、躊躇もなかった。
「私だけ、見てて……
他の女に触れないで……お願い……」
そう囁いた瞬間――
柚葉は、“自分が堕ちていること”に気づいてしまった。
でももう、遅い。
直哉の手が、ためらいもなく背中に回る。
そのまま、誰にも見られない夜の中で、完全に、独占されていく。
「切れ、じゃない。“戻れなくしろ”だ」
嫉妬の夜から、三日が経っていた。
柚葉は東雲からのメッセージを、
まだ一つも開いていない。
通知は溜まっている。
でも指が動かない。
理由は分かっていた。
――開いたら、優しい言葉が並んでいると分かっているから。
それが、もう苦しい。
夜。
直哉に呼ばれたのは、会社近くの小さなバーだった。
人目はあるのに、会話は切り取られない距離。
直哉はグラスを傾けながら、
何でもない調子で言った。
「東雲、まだ切れてないんだろ」
質問じゃない。
確認ですらない。
柚葉は、正直に頷いた。
「……会ってないですけど」
「連絡は?」
「……来てます」
直哉はそれ以上、追及しない。
代わりに、グラスを置いて、淡々と言う。
「じゃあさ。
“別れ話”しなくていい」
柚葉は思わず顔を上げた。
「……え?」
「揉めるし、泣かれるし、お前、そういうのに弱いだろ」
心臓が、ひやっとする。
図星だった。
「だから、切る方法はもっと簡単でいい」
直哉は、まるで仕事の段取りを説明するみたいに続けた。
「まず、返信の頻度を落とす。
理由は言わない。
“忙しい”も言うな」
「……それって……」
「罪悪感が出るだろ?
だったら、相手に“察させる”」
柚葉は言葉を失う。
冷たい。
でも、合理的だった。
「次に、会う約束は一回だけ受けろ」
「……会うんですか?」
「当たり前だろ。
急に切ると、未練が残る」
直哉は柚葉を見て、ゆっくり言った。
「その一回で、“もう戻れない”って空気を作る」
「どうやって……?」
直哉は少しだけ、口角を上げた。
「優しくしすぎるな。でも、冷たくもしない」
「……難しい……」
「いや、簡単だ」
直哉は、柚葉の指先に視線を落としながら言う。
「お前が今、“俺に向けてる顔”で接すればいい」
柚葉の喉が、鳴る。
「それだけで、東雲は気づく」
――自分が、もう選ばれていないことに。
「最後に一言だけ言え」
直哉は、その言葉を命令の形で渡した。
「『あなたは悪くない』」
「……それだけ?」
「ああ。それ以上は言うな」
直哉はグラスを傾け、低く付け足す。
「それ言われた瞬間、男は一番、何もできなくなる」
残酷なほど、的確だった。
その夜、帰り道。
柚葉はスマホを握りしめたまま、
足を止める。
(私……何してるんだろ)
でも、直哉の言葉が頭の中で静かに整列していく。
――揉めない
――泣かせない
――戻れなくする
「……優しい別れ、か……」
それは、
一番残酷な別れ方だった。
翌日。
東雲からのメッセージに、柚葉は短く返信した。
『少しだけ、会えます』
送信した瞬間、胸の奥が、きしっと鳴る。
その直後、別の名前から通知が来た。
《神崎 直哉》
『終わったら、連絡しろ。
……戻る場所は、ちゃんと用意してある』
柚葉は、その一文を見つめながら、
ゆっくり息を吐いた。
(……戻る、場所)
もう――
“戻れない”のは、
東雲だけじゃない。
自分もだ。
柚葉は画面を閉じ、静かに前を向いた。
この選択が、自分の意思だと信じるために。
「優しい別れほど、もう戻れない」
夜、駅から少し外れた、
東雲がよく選ぶカフェの奥の席。
以前何度も並んで座ったあのソファに、
柚葉は久しぶりに座っていた。
でも――
隣じゃなく、向かい側。
それだけで、空気がいつもと違っていた。
「……忙しかった?」
先に口を開いたのは、東雲だった。
変わらない優しさ。
変わらない口調。
でもその目だけは、どこかで覚悟を決めた人間の目だった。
「……うん。
バタバタしてて……」
言い訳にすらなっていない言葉に、
東雲は頷くだけ。
「仕事、大丈夫だった?」
「まあね。慣れたもんだよ、こういうのは」
相変わらずの柔らかい物言い。
それが今は、かえって刺さる。
コーヒーが運ばれてきた。
東雲はブラック、柚葉はラテ。
何も変わっていないのに、
目の前にあるもの全部が遠かった。
しばらく沈黙が落ちたあと、
東雲がふと笑って言う。
「柚葉さ、今日……何か話したいことあるんだよね?」
(……やっぱり)
気づかれてる。
何も言ってないのに。
「……どうして、そう思うの?」
「だって……顔がね。
昔、俺のこと好きだったときと、違う顔してる」
柚葉の指が、わずかに震えた。
「……好きだった、なんて……」
「言ってないよね。でも、分かってた」
東雲は、まるで自分の心じゃないものを話すみたいに、静かに続けた。
「俺たち、いつからか“甘えてただけ”になってたのかもね。
俺は、君の寂しさに。
君は、俺の優しさに」
返す言葉が出なかった。
痛いのに、責められていない。
苦しいのに、怒られていない。
「でも、寂しさも優しさも、
それだけじゃ関係は続かないんだろうなって」
東雲の目が、ほんの少しだけ潤む。
だけど、涙は流さない。
柚葉の胸の奥で、何かがきゅっと小さく収縮する。
(こんな……別れ方……)
もっと責めてくれたらよかった。
罵ってくれたら、きっと楽だった。
でも――
優しさで終わる別れは、
どんな罰より重かった。
柚葉は、言葉を選ぶようにして、絞り出す。
「……あなたは、悪くない」
その瞬間、東雲は微笑んだ。
ほんの少し、笑った。
でも――
その微笑みの奥で、何かが完全に折れる音がした。
(これが、直哉の言ってた“最終手段”)
言われた人間は、その一言で、何もできなくなる。
東雲は、最後まで礼儀正しく、優しかった。
コーヒーを飲み終え、静かに立ち上がって、
柚葉に向かって一礼する。
「……元気でいて」
その一言を残して、
彼は振り返らずに歩き去った。
カップの温度が、まだぬるいまま。
(彼が指輪を外す仕草に、もう慣れてしまっていた自分が
…いちばん嫌だった)
なのに、柚葉の心の中には、
凍えるような喪失感だけが残されていた。
その夜。
スマホにメッセージが届く。
《神崎 直哉》
『終わったか』
柚葉は、そのたった一文を見て、ゆっくりと目を閉じた。
――ああ、本当に“終わった”んだ。
そしてこれが、“戻れなくなる”ってことなんだ。
指先が、自然と返信を打っていた。
『……はい。終わりました』
数分後、画面にもう一通。
『よくやった』
ただそれだけなのに――
心が、少しだけ温かくなる。
それがどれほど異常なことか、
柚葉はもう、分からなくなっていた。
「あなたに抱かれてないと、安心できない身体になってしまった」
東雲と最後に会った夜から、数日。
柚葉は、直哉に会っていなかった。
彼からの連絡はなかった。
けれど、「待ってる」とだけは、最後に言われていた。
(……終わったのに)
(なんで、何も言ってこないの)
それが怖かった。
優しくされないことが怖いんじゃない。
あの夜、泣かれなかった東雲よりも、
今の直哉の無言が、ずっと怖い。
――私は、もう“いらない”んじゃないか?
その不安が、喉元までこみ上げた夜。
柚葉は、夜の街をひとりで歩いていた。
無意識に、会社と反対方向のビルに向かって。
タワーオフィスの最上階。
管理用カードがないと入れないはずの仮眠フロア。
けれど、のカードは――
まだ自分のバッグに、残されていた。
(捨てなかったのは……どうして?)
問いに答えが出るより早く、
ドアを開けた。仄暗い室内。
カーテンの閉じられた空間の奥に――
直哉はいた。
ソファに片肘をついて、無言のまま、柚葉を見ていた。
灯りを点けないまま。
ただ、静かにその目で。
柚葉は、視線を逸らさずに歩き出した。
靴音が吸い込まれるようなフロアを、まっすぐ。
直哉の前に立って、
何も言わずにしゃがみ込む。
そして、ゆっくりと目を上げて言った。
「……ねぇ、
今日くらいは、“抱いて”って言わせて」
喉の奥から、
何かを吐き出すような声だった。
「私、今日……ひとりで寝るの、無理かもしれない……」
「理由は?」
直哉の声は、低くて淡々としている。
優しくもない。
けれど――試していた。
「理由……なんて、ない……」
柚葉は唇を噛み、少しだけ首を横に振る。
「……あなたに抱かれてないと、
安心できない身体になっちゃったの」
一瞬だけ、沈黙。
そのあと、直哉が身体を起こし、ソファに背を預ける。
「じゃあ、乗れ」
たった一言。
命令でも、許可でもない。
“与えてやる”という立ち位置のまま。
柚葉は、何もためらわずに膝をついた。
ゆっくりと、彼の膝に跨がるようにして、
肩に手を置く。
「……触れても、いい?」
訊く必要なんてなかった。
でも、そうしたかった。
直哉の手が、柚葉の頬を撫でる。
その指先が、何かを確かめるように、髪をすくって耳元にかけた。
「お前、今日……少し痩せた?」
「……わかる?」
「わかるよ。
“俺に会いたくてたまらなかった顔”してるから」
その言葉だけで、
柚葉の肩から力が抜ける。
次の瞬間、自分から唇を重ねていた。
(この人の中に溶けることでしか、
私はもう、自分を保てない)
シャツのボタンに手をかける。
今までなら躊躇った手順が、今は自然だった。
ひとつ、またひとつと外しながら、
柚葉は低く、呟く。
「……お願い、して……
私のものだって、今夜も……ちゃんとわからせて……」
その言葉に、直哉の目が一瞬だけ、細く揺れた。
そして柚葉の後頭部を支えるように抱き寄せ、
唇を塞いだ。
キスは長く、深く、
どこまでも――所有を刻み込むような口づけだった。
そのまま、ゆっくりとソファに押し倒される。
もはや“抱いて”なんて言葉は、必要なかった。
柚葉は今夜、自分の意思で、
直哉に抱かれに来た。
――それが何よりの証明だった。
行為のあと、
柚葉は直哉の腕の中で目を閉じながら、
そっと問いかける。
「……もし、私が他の男とまた連絡取ったら……」
直哉の指先が、首筋をなぞる。
「……俺の中に戻れなくしてやるよ」
その一言に、
柚葉はわずかに微笑んだ。
その言葉が、
安心できる支配だと、心の底から思ってしまった自分に――
もう、何の抵抗もなかった。
「もうあなた以外じゃ、感じられないの」
直哉の腕の中で微睡む時間は、
あまりにも静かで、でも熱かった。
(……この人に抱かれる時の私、
呼吸も心拍も、全部変わる)
まるで薬のように効いてしまう快楽に、
心まで犯されてる感覚。
それが、怖いくらい心地よかった。
「なあ、柚葉」
名前を呼ばれて、反射的に身体が反応する。
「……ん……?」
「自分で確かめてみるか?
ほんとに“俺以外”じゃ感じないかどうか」
その言葉に、柚葉は目を瞬かせた。
「……どうやって?」
「自分の手でもいい。
他の名前でもいい。
試してみて――“何が響くか”」
悪戯っぽく笑いながら、直哉は柚葉の手をそっと取り、自分の胸から離す。
「……ほら。ひとりでやってみろ。見ててやる」
ベッドの上。
照明は落とされたまま、月明かりだけが薄く照らしていた。
柚葉はうつむきながら、
おそるおそる、自分の太ももへ手を伸ばす。
(ほんとに……私……)
指先がショーツの縁に触れる。
少しずらして、中指を滑らせる。
熱はまだ微かに残っていたけれど、
さっき直哉に抱かれたときの“あの痺れる感じ”は、どこにもなかった。
「……っ……」
左右に撫でる。指を中に入れてみる。
でも、脈打つような快感は来ない。
身体が“ただの動作”として受け止めてるだけ。
(あれ……?)
直哉の視線を感じるなかで、名前を――心の中で、呼んでみる。
『東雲さん』
……何も、起きない。
まるで空気が、動かなかった。
むしろ少し、罪悪感すら湧いた。
「……どうした?」
「……何も、感じない……自分で触っても、
……全然……っ、」
目尻が熱くなる。
その瞬間、直哉が柚葉の手を掴み、
そのまま“自分の指”を中に滑り込ませた。
ぬる、と音が立つほど、
濡れ始めた感触に、柚葉の腰がビクッと揺れる。
「……あっ……!」
「こっちは正直だな」
「やっ……ん、んっ……」
くちゅ、くちゅと音が濃くなっていく。
「名前、呼べ」
「……っ、や……っ、な、なお……っ、直哉……っ」
「そう。俺の名前じゃないと、
お前の身体、動かないんだよ」
柚葉は、快楽に翻弄されながら、
自分の奥がきゅうっと締まるのを感じた。
「……直哉……だけ……
もう、直哉じゃなきゃ……っ、だめ……」
「最初から、そうなるように抱いてやってた。
忘れさせて、刻み込んで。
……俺以外、全部消してやった」
指が、奥の一番感じる場所に触れる。
電流が走るように、柚葉の身体が反応した。
「や……っ、やだ……イク、イク……!」
「いいよ、何度でもイケ。
全部、俺の中で、壊れてしまえ」
直哉の囁きに、柚葉は涙を浮かべながら、
自分から身体を捩らせて、絶頂に達した。
びくんと弾けた感覚が、全身に拡がる。
(……もう……)
私は、直哉の名前だけで
感じられる身体になってしまった。
その夜、ベッドの中で直哉の胸に頬を押し付けながら、
柚葉はぽつりと呟く。
「ねぇ……私って、もう……」
「“俺の女”だよ。文句ある?」
返された言葉に、柚葉は小さく笑った。
「……ううん。安心した」
安心。
支配されてるのに、
服従してるのに――
この人の中が、自分の帰るべき場所だと思ってしまった。
完全に、堕ちた。
でも、それが何より“幸せ”だった。
読み終わった後も、この感覚を手放したくない方へ


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