あの夜、彼から逃げ出すようにして、彼の部屋を飛び出してから一週間。
ひよりは、あんなに怖かったはずの個人サロン『Lien』の前に、吸い寄せられるように立ち尽くしていた。
(……このままじゃ、消えちゃう……)
それが、どうしても耐えられなかった。
鏡を見るたび、首筋に咲いていたあの独占欲の痕が薄れていくのが──
自分の身体から彼が消えていくようで、息が詰まるほど寂しかった。
もう一度、あの強い力で抱きしめられたい。
そう願ってサロンの扉を細く開けた瞬間──
ひよりの身体は、冷や水を浴びせられたように硬直した。
「……今日はお疲れ様でした。お肌の調子、すごく良くなっていますよ」
受付の奥から聞こえてきたのは、耳に心地よく響く、いつもの穏やかで優しい『セラピスト』の声。
少し開いたカーテンの隙間から見えたのは──別の女性客の荷物をごく自然に持ち、
その華奢な肩に、優しく大きな手を添えて微笑む一ノ瀬慶の姿だった。
自分だけに向けられていると信じていたあの深い眼差しが、
ただの仕事として、他の女に惜しみなく与えられている。
心臓の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
(いやだ…、触らないで。その人に優しくしないで…)
逃げ出したはずの檻の前に自ら戻り、他の女に向けられる彼の完璧な微笑みを見つめながら──
ひよりは自分の中の傲慢な独占欲の存在に、引き返せないほど気が付いてしまう。
カーテンの向こうの彼が、ふと──何かに気づいたようにこちらへ視線を向けた。
彼の視線がこちらを向いた瞬間、ひよりは弾かれたように受付の影へと身を隠した。
心臓が、耳の奥でありえないほど大きな音を刻んでいる。
「慶さん〜? どうかしました?」
カーテンの向こうから聞こえた、女性客の少し鼻にかかった甘い声。
ひよりの知らない彼の『仕事中の顔』を、その女は当然のように独占していた。
女性客は慶の視線の先を追うようにして、細く開いた扉の隙間──
そこに佇むひよりの存在に気づく。
その瞬間、女の綺麗な瞳が、値踏みするような冷たい光を帯びた。
「ふふ、なんでもないですよ」
彼はいつもと変わらない、完璧に穏やかな微笑みを崩さない。
けれど、女性客はひよりに見せつけるように──
慶の上着の袖口へ、そっと身を寄せるようにして指先を絡めた。
「次の予約、もう指名で入れておきましたから。
……慶さんの特別な施術がないと、私、もう生きていけないかも」
それは、ただの客としての言葉を越えた──
明確な独占欲の誇示だった。
ひよりをサロンの『外側』へと突き放すような、静かで確実な牽制。
彼がその女に触れ、優しく微笑み返すたびに──
ひよりの身体の奥が、冷たい拒絶の痛みにじわじわと侵食されていく。
逃げ出したいのに、足が動かない。
その時、女性客を見送るために動き出した彼の足音が──
ゆっくりと、ひよりの隠れる影へと近づいてきた。
逃げ出そうと踵を返したひよりの細い腕を、彼の手が背後から掴んだ。
「──こんなところで、何してるの?」
鼓膜を震わせたのは、さっき他の客に向けていたような穏やかなものではない。
低く、少しだけ呆れたような……けれど、どこか熱を帯びた声。
「……っ、離して……仕事中、ですよね」
「うん、そうだよ。俺は今、仕事中」
ひよりの反発をあっさりと肯定し、慶はそのまま彼女を薄暗い廊下の壁へと押し込んだ。
逃げ道を塞ぐように両腕をつかれ、彼の大きな身体の影に完全に閉じ込められる。
「さっきの、見てたでしょ」
「見てないっ……それに、私には関係ないし……っ」
「関係ないなら、どうしてそんなに泣きそうな顔してるの?」
彼の手が、ひよりの震える頬をすっと撫でる。
まるで拗ねた子供をあやすような、余裕のある手つき。
「……なんで、あんな女に優しくするの……っ。私の時だけって、思ってたのに……」
ポロポロと涙をこぼすひよりを見下ろして──
慶の端正な口元に、微かに笑みが浮かんだ。
「嫉妬してわざわざ確かめに来たんだ? ──本当に、可愛いね」
「ちが、っ……」
否定しようとする震える唇を、慶の指先がそっと塞いだ。
耳元に寄せられた唇から、甘く低い吐息が鼓膜を直接撫でる。
「ここではダメだよ。誰かに聞かれたら、俺の評価下がっちゃうからね」
わざとらしくプロの顔を覗かせながら、彼はひよりの首筋に──
あの夜と同じ場所に、わざと唇を擦り寄せた。
「この嫉妬の続き……どうやって俺を独占したいかは、今夜、俺の部屋でたっぷり聞かせて」
夜。指定されたマンションの扉の前に立つひよりの足は、微かに震えていた。
あんな醜い嫉妬をぶつけてしまったのに、彼は余裕たっぷりに微笑んで、この密室への招待状を渡してきた。
チャイムを鳴らすと、ガチャリと重い音がして扉が開く。
中から現れた慶は、サロンでの隙のないシャツ姿ではなく、少しはだけたラフな黒いニットを纏っていた。
「……いらっしゃい。ちゃんと逃げずに来れたね」
玄関に足を踏み入れた途端、背後でカチャリと鍵が閉められる。
完全に退路を断たれた空間に、彼から漂う甘くて生々しい匂いが充満していく。
「あの……慶さん、私……」
「靴、脱いで。こっち」
有無を言わさない低い声に導かれるまま、リビングのソファへと座らされる。
慶はひよりの隣に腰を下ろすと、逃げ道を塞ぐように深く寄りかかり──
あの長い指で、ひよりの顎をすくい上げた。
「で? 昼間の続き……俺をどうやって独占したいの?」
「……っ、それは……他の人に、あんな風に優しくしないでほしくて……」
消え入りそうな声で白状するひよりの唇を、彼の親指がゆっくりとなぞる。
「……俺の視界には、ずっと君しか入ってないのに」
甘い吐息とともに、彼がひよりの耳元へと顔を寄せる。
肌に触れるか触れないかの距離で、鼓膜を直接撫でるような低い声が落ちた。
「ねぇ。俺のこと、いつまで一ノ瀬なんて偽名で呼ぶの?」
「……え?」
「本当に思い出せない? ──君が昔からずっと、俺の頭をおかしくさせてたんだよ」
混乱する彼女の瞳を逃さず射抜く慶の端正な顔から、いつもの穏やかな表情が抜け落ちた。
「小学校の頃から……君が他の男の隣で笑うたびに、無性にイライラした」
「あの時はまだ子供で、この持て余すような感情の正体が分からなかったけど──」
「その答えが、今ならはっきり分かるよ」
「──君の全部を、俺の熱でぐちゃぐちゃに塗り潰したいんだ」
慶の手が、ゆっくりと自分の顔にかかっていた細身のフレーム眼鏡に伸びる。
カチャリ、とサイドテーブルにそれが置かれた瞬間。
今までセラピストというフィルター越しに隠されていた、彼の『素の瞳』が完全に剥き出しになった。
サロンの薄暗い間接照明ではなく、この部屋の明かりの下で。
何の誤魔化しもない、真っ直ぐで、ひよりだけを絡め取るような眼差し。
(……もしかして…)
その目を見た瞬間、ひよりの脳裏に、鍵をかけていた遠い記憶がフラッシュバックする。
小学校の教室。 いつも遠くから、他の誰でもない私だけを……こんな風に射抜くような目で見ていた男の子。
「……けい、くん……?」
震える唇から無意識にこぼれたその呼び名に、慶の端正な口角が、ゆっくりと歪むように吊り上がった。
「……やっと、俺に気づいた」
目の前で低く笑うこの男が何を言っているのか、理解が追いつかない。
混乱するひよりを逃がさないように、慶はゆっくりと顔を近づけ、その耳元に冷たいほど静かな声を落とした。
「……図書室の、一番奥の窓際」
「……え?」
「君、いつもあそこで本読んでたでしょ。……周りのことなんて一切見えなくなるくらい、夢中になって」
ひよりの心臓が、音を立てた。
それは誰にも言ったことのない……小学生の頃の、秘密の居場所だった。
「俺、あの本棚の影から……君が無防備にページをめくる顔を、ずっと見てたんだよ」
息が止まりそうになる。
彼の指先が、ひよりの震える唇をゆっくりとなぞった。
「あの頃からずっと……その大人しい顔を泣き顔に歪ませて、俺のことで頭をいっぱいにさせたかったのかもしれない」
彼の手が、ひよりの顎を強く、けれど逃げられないようにホールドする。
真っ直ぐに見据えてくるその瞳の奥に、幼い頃にいつも遠くから自分を見ていた『あの目』が、完全に重なった。
「……ねぇ、ひより。 俺の本当の名前……思い出してよ」
「……名字は偽名なんだ。
でも、下の名前だけは……いつか君に呼ばれたくて、変えられなかった」
「……どうしても、思い出せないの。ごめんなさい」
責められると思ってぎゅっと目を瞑ったひよりに、慶はただ静かに沈黙していた。
「でも……私にとっては、あなたは『慶さん』だから。
昔のことはわからないけど、今の慶さんがいいの。……それじゃ、だめ?」
震える声でそう縋った瞬間──ひよりの頬を包んでいた慶の手が、びくりと跳ねた。
「……ほんと、反則だろ」
低く、掠れた声。
慶はそれ以上近づいてこない。
ひよりの怯えを確かめるように、数歩分の距離を保ったまま静かにこちらを見下ろしている。
「……ごめん。急にこんなこと言われても、怖かったよね」
壁に押し付けていた腕を、慶はゆっくりと下ろした。
彼から離れていくそのわずかな体温と匂いの喪失が、ひよりの胸の奥をチクリと刺す。
「俺のこと……君が自分から呼んでくれるまで、指一本触れないで待ってる」
その声は、サロンで聞いていた穏やかなセラピストのものではなく──
体温が直接伝わってくるような、少し掠れた『ただの男』の地声だった。



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