密室セラピーⅧ ─無自覚な嫉妬と、焦らされる沈黙─

 

前のお話

あの夜、彼から逃げ出すようにして、彼の部屋を飛び出してから一週間。

ひよりは、あんなに怖かったはずの個人サロン『Lien』の前に、吸い寄せられるように立ち尽くしていた。

(……このままじゃ、消えちゃう……)

それが、どうしても耐えられなかった。

鏡を見るたび、首筋に咲いていたあの独占欲の痕が薄れていくのが──

自分の身体から彼が消えていくようで、息が詰まるほど寂しかった。

もう一度、あの強い力で抱きしめられたい。

そう願ってサロンの扉を細く開けた瞬間──

ひよりの身体は、冷や水を浴びせられたように硬直した。

「……今日はお疲れ様でした。お肌の調子、すごく良くなっていますよ」

受付の奥から聞こえてきたのは、耳に心地よく響く、いつもの穏やかで優しい『セラピスト』の声。

少し開いたカーテンの隙間から見えたのは──別の女性客の荷物をごく自然に持ち、

その華奢な肩に、優しく大きな手を添えて微笑む一ノ瀬慶の姿だった。

自分だけに向けられていると信じていたあの深い眼差しが、

ただの仕事として、他の女に惜しみなく与えられている。

心臓の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

(いやだ…、触らないで。その人に優しくしないで…)

逃げ出したはずの檻の前に自ら戻り、他の女に向けられる彼の完璧な微笑みを見つめながら──

ひよりは自分の中の傲慢な独占欲の存在に、引き返せないほど気が付いてしまう。

カーテンの向こうの彼が、ふと──何かに気づいたようにこちらへ視線を向けた。

彼の視線がこちらを向いた瞬間、ひよりは弾かれたように受付の影へと身を隠した。

心臓が、耳の奥でありえないほど大きな音を刻んでいる。

「慶さん〜? どうかしました?」

カーテンの向こうから聞こえた、女性客の少し鼻にかかった甘い声。

ひよりの知らない彼の『仕事中の顔』を、その女は当然のように独占していた。

女性客は慶の視線の先を追うようにして、細く開いた扉の隙間──

そこに佇むひよりの存在に気づく。

その瞬間、女の綺麗な瞳が、値踏みするような冷たい光を帯びた。

「ふふ、なんでもないですよ」

彼はいつもと変わらない、完璧に穏やかな微笑みを崩さない。

けれど、女性客はひよりに見せつけるように──

慶の上着の袖口へ、そっと身を寄せるようにして指先を絡めた。

「次の予約、もう指名で入れておきましたから。

……慶さんの特別な施術がないと、私、もう生きていけないかも」

それは、ただの客としての言葉を越えた──

明確な独占欲の誇示だった。

ひよりをサロンの『外側』へと突き放すような、静かで確実な牽制。

彼がその女に触れ、優しく微笑み返すたびに──

ひよりの身体の奥が、冷たい拒絶の痛みにじわじわと侵食されていく。

逃げ出したいのに、足が動かない。

その時、女性客を見送るために動き出した彼の足音が──

ゆっくりと、ひよりの隠れる影へと近づいてきた。

逃げ出そうと踵を返したひよりの細い腕を、彼の手が背後から掴んだ。

「──こんなところで、何してるの?」

鼓膜を震わせたのは、さっき他の客に向けていたような穏やかなものではない。

低く、少しだけ呆れたような……けれど、どこか熱を帯びた声。

「……っ、離して……仕事中、ですよね」

「うん、そうだよ。俺は今、仕事中」

ひよりの反発をあっさりと肯定し、慶はそのまま彼女を薄暗い廊下の壁へと押し込んだ。

逃げ道を塞ぐように両腕をつかれ、彼の大きな身体の影に完全に閉じ込められる。

「さっきの、見てたでしょ」

「見てないっ……それに、私には関係ないし……っ」

「関係ないなら、どうしてそんなに泣きそうな顔してるの?」

彼の手が、ひよりの震える頬をすっと撫でる。

まるで拗ねた子供をあやすような、余裕のある手つき。

「……なんで、あんな女に優しくするの……っ。私の時だけって、思ってたのに……」

ポロポロと涙をこぼすひよりを見下ろして──

慶の端正な口元に、微かに笑みが浮かんだ。

「嫉妬してわざわざ確かめに来たんだ? ──本当に、可愛いね」

「ちが、っ……」

否定しようとする震える唇を、慶の指先がそっと塞いだ。

耳元に寄せられた唇から、甘く低い吐息が鼓膜を直接撫でる。

「ここではダメだよ。誰かに聞かれたら、俺の評価下がっちゃうからね」

わざとらしくプロの顔を覗かせながら、彼はひよりの首筋に──

あの夜と同じ場所に、わざと唇を擦り寄せた。

「この嫉妬の続き……どうやって俺を独占したいかは、今夜、俺の部屋でたっぷり聞かせて」

夜。指定されたマンションの扉の前に立つひよりの足は、微かに震えていた。

あんな醜い嫉妬をぶつけてしまったのに、彼は余裕たっぷりに微笑んで、この密室への招待状を渡してきた。

チャイムを鳴らすと、ガチャリと重い音がして扉が開く。 

中から現れた慶は、サロンでの隙のないシャツ姿ではなく、少しはだけたラフな黒いニットを纏っていた。

「……いらっしゃい。ちゃんと逃げずに来れたね」

玄関に足を踏み入れた途端、背後でカチャリと鍵が閉められる。 

完全に退路を断たれた空間に、彼から漂う甘くて生々しい匂いが充満していく。

「あの……慶さん、私……」

「靴、脱いで。こっち」

有無を言わさない低い声に導かれるまま、リビングのソファへと座らされる。 

慶はひよりの隣に腰を下ろすと、逃げ道を塞ぐように深く寄りかかり──

あの長い指で、ひよりの顎をすくい上げた。

「で? 昼間の続き……俺をどうやって独占したいの?」

「……っ、それは……他の人に、あんな風に優しくしないでほしくて……」

消え入りそうな声で白状するひよりの唇を、彼の親指がゆっくりとなぞる。

「……俺の視界には、ずっと君しか入ってないのに」

甘い吐息とともに、彼がひよりの耳元へと顔を寄せる。

 肌に触れるか触れないかの距離で、鼓膜を直接撫でるような低い声が落ちた。

「ねぇ。俺のこと、いつまで一ノ瀬なんて偽名で呼ぶの?」

「……え?」

「本当に思い出せない? ──君が昔からずっと、俺の頭をおかしくさせてたんだよ」

混乱する彼女の瞳を逃さず射抜く慶の端正な顔から、いつもの穏やかな表情が抜け落ちた。

「小学校の頃から……君が他の男の隣で笑うたびに、無性にイライラした」

「あの時はまだ子供で、この持て余すような感情の正体が分からなかったけど──」

「その答えが、今ならはっきり分かるよ」

「──君の全部を、俺の熱でぐちゃぐちゃに塗り潰したいんだ」

慶の手が、ゆっくりと自分の顔にかかっていた細身のフレーム眼鏡に伸びる。

カチャリ、とサイドテーブルにそれが置かれた瞬間。

 今までセラピストというフィルター越しに隠されていた、彼の『素の瞳』が完全に剥き出しになった。

サロンの薄暗い間接照明ではなく、この部屋の明かりの下で。

 何の誤魔化しもない、真っ直ぐで、ひよりだけを絡め取るような眼差し。

(……もしかして…)

その目を見た瞬間、ひよりの脳裏に、鍵をかけていた遠い記憶がフラッシュバックする。 

小学校の教室。 いつも遠くから、他の誰でもない私だけを……こんな風に射抜くような目で見ていた男の子。

「……けい、くん……?」

震える唇から無意識にこぼれたその呼び名に、慶の端正な口角が、ゆっくりと歪むように吊り上がった。

「……やっと、俺に気づいた」

目の前で低く笑うこの男が何を言っているのか、理解が追いつかない。

混乱するひよりを逃がさないように、慶はゆっくりと顔を近づけ、その耳元に冷たいほど静かな声を落とした。

「……図書室の、一番奥の窓際」

「……え?」

「君、いつもあそこで本読んでたでしょ。……周りのことなんて一切見えなくなるくらい、夢中になって」

ひよりの心臓が、音を立てた。 

それは誰にも言ったことのない……小学生の頃の、秘密の居場所だった。

「俺、あの本棚の影から……君が無防備にページをめくる顔を、ずっと見てたんだよ」

息が止まりそうになる。

彼の指先が、ひよりの震える唇をゆっくりとなぞった。

「あの頃からずっと……その大人しい顔を泣き顔に歪ませて、俺のことで頭をいっぱいにさせたかったのかもしれない」

彼の手が、ひよりの顎を強く、けれど逃げられないようにホールドする。 

真っ直ぐに見据えてくるその瞳の奥に、幼い頃にいつも遠くから自分を見ていた『あの目』が、完全に重なった。

「……ねぇ、ひより。 俺の本当の名前……思い出してよ」

「……名字は偽名なんだ。

でも、下の名前だけは……いつか君に呼ばれたくて、変えられなかった」

「……どうしても、思い出せないの。ごめんなさい」

責められると思ってぎゅっと目を瞑ったひよりに、慶はただ静かに沈黙していた。

「でも……私にとっては、あなたは『慶さん』だから。

昔のことはわからないけど、今の慶さんがいいの。……それじゃ、だめ?」

震える声でそう縋った瞬間──ひよりの頬を包んでいた慶の手が、びくりと跳ねた。

「……ほんと、反則だろ」

低く、掠れた声。

慶はそれ以上近づいてこない。

ひよりの怯えを確かめるように、数歩分の距離を保ったまま静かにこちらを見下ろしている。

「……ごめん。急にこんなこと言われても、怖かったよね」

壁に押し付けていた腕を、慶はゆっくりと下ろした。

彼から離れていくそのわずかな体温と匂いの喪失が、ひよりの胸の奥をチクリと刺す。

「俺のこと……君が自分から呼んでくれるまで、指一本触れないで待ってる」

その声は、サロンで聞いていた穏やかなセラピストのものではなく──

体温が直接伝わってくるような、少し掠れた『ただの男』の地声だった。

 

この熱を、自分の肌でも感じたい方へ…♡

送信中です

×

※コメントは最大500文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!

コメント

タイトルとURLをコピーしました